2. 定例取締役会(2016年8月10日)

2.定例取締役会

田中社長は、取締役会で従業員の給与を半分、幹部の給料を20万円、そして僕の報酬をゼロにすると言いだした。そして、融資の返済できないことを、生きている価値がないことのように罵詈雑言を浴びせられた。

最近は、穏便だったはずの田中社長がすぐに激昂する。

たかが大口の債権者じゃないか、なんでここまで言わなきゃいけないのか、という思いもあったが、大口の債権者だからこそ「債権者破産申立」という法律を盾に、強引に破産させられるリスクも孕んでいたので、田中社長の気持ちを波立たせないように大人しく従うことにした。

田中社長の頭の中には、一日も早く僕の会社を操業不能な状態に陥れ、僕を破産に追い込むシナリオが出来ているのは分かっている。

この人生最大のピンチをどう乗り切るか・・・。

しかし、人生48年の経験を総動員しても、何もアイデアが浮かばない。

とりあえず、従業員には給与を半分にすることに納得してもらい、その上で今まで以上の結束を呼びかけよう。

僕はまず従業員を集め、「会社が大変な状況になっているのは薄々気づいているとは思うが、田中社長が従業員の給料を半分にしろと言ってきた。必ず埋め合わせするから、当面我慢して欲しい。本当にすまない」と深々と頭を下げお願いをした。

そして、「申し訳ないけど、バイトをして欲しい。けど、場所はこの辺の天神界隈じゃダメだ。自宅近くで目立たぬようにひっそりとやって欲しい」とお願いした。

最近はマスコミに多く取り上げられるようになったので、世間一般には僕の会社は飛ぶ鳥を落とす勢いにしか見えない。

様々なビジネス賞も受賞し、問い合わせの電話も増えてきた。ハタで見ると、まさに右肩上がりの元気印の会社である。

そこの従業員がバイトをしていると分かれば、会社のブランドが限りなく失墜するのは目に見えている。それだけは、絶対に避けなければならぬ。

「社長、最後まで諦めずに頑張りましょう!」

声を出したのは、25歳のシングルマザー永田綾子、通称あややだった。
元々派遣会社から来てくれていた事務の女性であった。

派遣会社には時給1800円ほど払っていたのに、本人の手元には派遣会社から半分しか入ってこないことを知り、直接雇うようになった。

あややには、シングルマザー特有の悲壮感はない。
ネイルアートが好きな、付けまつ毛と化粧バッチリの今時の女性だった。

入社した当初は、パソコンもあまり出来ず任せられる仕事の範囲も狭かったが、2人の子どもを養うという責任感もあったからか、持ち前の根性で急成長してくれて、いつの間にか無くてはならない貴重な戦力となっていった。

納品が間に合わない時には、男性でも重いような物を男性従業員と一緒に自ら進んで運ぶガッツもあった。

僕の会社では「元ヤンキー」だとか「レディース出身」だとからかわれたりしていたが、気遣いができる女性でもあったので、僕の会社に出入りする業者さんのアイドル的な存在となり、僕も鼻が高かった。

「柿本、おまえはバスの通勤に変えてくれ」

それまで自宅の北九州から新幹線通勤であったが、それをバスに替えるのである。
これだけで通勤コストが半分以下になる。時間は3倍以上かかるがやむ終えない。

僕がそういうと柿本は快諾した。

柿本は僕と同じ歳で、「中澤を男にしたい」と入社してくれた男性だ。
若かりし頃、一緒に公認会計士の勉強をした勉強仲間でもあり、入社後彼を副社長に抜擢した僕のお気に入りの右腕である。

また、お互いにオートバイが大好きで、ツーリングだけでなく、一緒にサーキットを走ったこともあるくらい大の仲良し友達だった。

僕はカワサキの「ZZ-R1100」という当時の世界最速バイクを改造して乗っており、柿本は通称「パパサン」というスポーツタイプのハーレーに乗っていた。

柿本は僕が公認会計士の勉強をやめた翌年に無事合格し、大手の監査法人に勤めていたが、監査の仕事が面白くないと言って、九州大学のロースクールに入り直し、司法試験の勉強を始めた。

現在の新試験制度になってからの受験であったが、長期間の健闘も虚しく合格できずにフリーで会計の仕事をしていたので、僕が声をかけたら悩んだ末に来てくれることになった。

柿本は、若かりし頃の江口洋介を真似て、その当時から今もずっとロン毛である。
そして、白髪が増え始めた事情もあって茶髪となった。

ファッションにこだわるミーハーなヤツで、無理して若い子が使う言葉を使っているのが、可愛らしく思えていた。

パッと見はナンパな遊び人で、息子一人の妻子持ちであるが、実際に奥さんに何度も浮気がバレており、モテるゆえに何度も離婚の危機があったようだが、何とか持ちこたえていた。

「社長、ユーフォリアの資金調達を急いだらどうですか」

そう言ったのは、もう一人の右腕の窪塚だった。

僕より歳はちょうど10歳上の大先輩だ。
僕が結婚した2006年の翌年に、知り合いの紹介で飛び込んでくれた一級建築士の有資格者だった。
僕の特許商品の説明を聞いて一発で一目惚れしてしてくれて、僕の元に飛び込んでくれた。

窪塚は上場企業の建材メーカーの開発部出身で、その会社が倒産したので東京本社のデベロッパーの取締役で大活躍していた。

その大活躍している時に退社して来てくれたのた。

ユーフォリアというのは、現在急成長のバイオ企業で、かのホリエモンも出資している。
まだ起業仕立ての頃、「日中韓若手経済人フォーラム」という3カ国の政府のイベントで知り合った会社がユーフォリアである。

日本のベンチャー企業の代表として僕の会社が選ばれ、中国の人民大会堂でユーフォリアの伊勢社長と知り合った。資金調達というのは、その伊勢社長の好意と意向で、たまたま7月にユーフォリアの副社長永野さんが出資を前提でわざわざ福岡に来てくれて進めていた案件だった。

とにかく、これを急がねば!

「木本さん、あなたも20万円になるが申し訳ない」

木本は自社工場の工場長だ。工場自体はここ(天神)から車で約1時間かかる柳川にある。

わざわざ本社に来てくれた木本もニッコリ頷いてくれた。静かな人間だが、僕はこの木本も心底信頼していた。
木本も僕より10歳以上も年上の大先輩だ。なので、非常に心苦しい。

よくある話だが、木本は友人の借金の連帯保証人になって逃げらて、その借金を返している。
そして当面はその借金払いに支障をきたすことになるが、すぐに同意してくれたのでホッとした。

まだその時点では会社に勢いもあり残りの従業員も快諾してくれたので、僕は当面の足元は磐石であると確信できて嬉しかった。

そして、熊本地震の支援で有名になった知名度を利用して、とにかくキャッシュを増やして凌いでいこう。
時間を稼いでいる間に、資金調達を急いで田中社長へ借金返済をして、会社を元に戻そうということになった。

そして、次にとる行動は、毎月の支出を減らすことだと考えた。

銀行の口座は田中社長に抑えられてしまったので、少しでも支出を減らして手元の資金を増やさないと仕入れができない。

銀行への返済が100万円ほどあったので、これを1年間だけ待ってもらうことにしよう。

とにかく、今は工場で製造できないことが一番マズイ。

それと、窮地を回避する法的な手立てがないか悩んでいた時に、
「そうだ!僕には、株主で弁護士の山上先生がいるじゃないか!」と思いついた。

山上先生というのは、多額の出資をして下さっている兵庫大手の弁護士事務所の所長である。

スタートアップの頃から懇意にさせて頂いている地元の名さんである。

「なんで今まで思いつかなかったのだろう」と苦笑いをして、連絡をとった。

「ふうっ!今年のお盆は、お盆どころじゃないな!」

これまで以上に、僕は腹をくくり直し、ふんどしの尾を締め直した。