要約『嫌われる勇気』岸見 一郎 (著), 古賀 史健 (著)

ADLER

*アドラーの名前を全国区に持ち上げた大ベストセラー本。

「世界」が複雑なのではなく、ひとえに『あなた」が世界を複雑なものとしているのです。
問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。
e.g.井戸水は年中18度で「客観」の事実であるが、一方、その事実を冷たいと感じるか暖かいと感じるかは「主観」の話

人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。

第一夜 トラウマを否定せよ

知られざる「第三の巨頭」の一人がアドラー
心理学の三大巨頭はフロイト、ユング、アドラー

アドラー心理学は、堅苦しい学問ではなく、人間理解の心理、また到達点として受け入れられている。

なぜ「人は変われる」なのか
過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。
「目的論」目的が先にあって、その目的の手段として不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。

我々は「原因論」の住人である限り、一歩も前に進めません。

トラウマは、存在しない
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。 

自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
我々は皆、何かしらの「目的」に沿って生きている。それが目的論です。

人は怒りを捏造する
怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。
e.g.喫茶店でコーヒーを服にこぼされて大声で怒鳴りつける←ウェイターを屈服させたい目的のために、その手段として、怒りという感情を捏造した。

過去に支配されない生き方
アドラー心理学はニヒリズム(虚無主義)の対極にある思想であり、哲学なのです。
トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論としては、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入口なのです。

「人は変われる」を前提に考えよ。

ソクラテスとアドラー
変わることの第一歩は、知ることにあります。
答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきものです。

ソクラテスもアドラーも対話を好んでいたが、それは対話を通じて答えを導き出していく、その貴重なプロセスを奪いたくないからでした。

あなたは「このまま」でいいのか
もしも幸せを実感できずにいるのであれば、「このまま」でいいはずがない。立ち止まることなく、一歩前にふみださないといけません。

「大切なのは何が与えられているかでなく、与えられたものをどう使うかである」

あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
我々に必要なのは交換ではなく、行進なのです。

今のあなたが不幸なのは、自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。

「不幸であること」がご自身にとっての「善」だと判断した。

ソクラテスのパラドクス「誰一人としている悪を欲する人はいない」
この場合の「悪(kakon)」は「自分のためにならない」という意味。一方「善」は「自分のためになる」という意味。どちらも道徳的な意味はない。

人は常に「変わらないと」という決心をしている
アドラー心理学では、思考や行動の傾向を「ライフスタイル」という言葉で説明します。その人が「世界」をどう見ているか、また「自分」のことをどう見ているか。これらの「意味づけのあり方」を集約させた概念。
e.g.「私は悲観的な性格だ」→「私は悲観的な”世界観”を持っている」と言い換えてみる。世界観であれば変容させていくことも可能でしょう。

もしライフスタイルが先天的に与えられたものではなく、自分で選んだものであるなら、再び自分で選び直すことも可能なはずです。

あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからです。あなたがご自分のライフスタイルを変えないでおこうと、不断の決心をしているからなのです。

人は、色々と不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることの方が、楽であり、安心なのです。

ライフスタイルを変えようとするとき、我々は大きな”勇気”を試されます。変わることで生まれる「不安」と、変わらないでつきまとう「不満」。

アドラー心理学は、勇気の心理学です。

あなたが不幸なのは、過去や環境のせいでなく、ただ”勇気”が足りていない、「幸せになる勇気」が足りていないのです。

あなたの人生「いま、ここ」で決まる

あなたが最初にやるべきは、「いまのライフスタイルをやめる」という決心です。そうすることで、前に進むことができます。

「もし何々だったら」と可能性の中に生きているうちは、変わることなどできません。
∵変わらない自分への言い訳として「もしもYのような人間になれたら」といっているから。

あなたは「あなた」のまま、ただライフスタイルを選び直せばいい。

アドラーの目的論は「これまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もない。自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ」と。

第二夜 全ての悩みは対人関係

なぜ自分のことが嫌いなのか
短所ばかりが目についてしまうのは、あなたが「自分を好きにならないでおこう」と決心しているからです。自分を好きにならないという目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目している。まず、その点を理解して下さい。
e.g.赤面症で好きな男性に告白出来ずにいる女性←彼女自身が「赤面という症状を必要としている」から。彼女にとって一番恐ろしいことは、失恋。「もしも赤面症が治ったら私だって‥」と、「可能性」の中に生きることができるのです。

アドラー心理学「勇気づけ」
まずは「いまの自分」を受け入れてもらい、たとえ結果がどうであったとしても、前に踏み出す勇気を持ってもらう。
e.g.短所ばかりが目につき自分を嫌いな男性←あなたが他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを過剰に恐れているから。つまり、あなたの目的は、「他者との関係の中で傷つかないこと」なのです。

アドラー「悩みを消し去るには、宇宙の中にただ一人で生きるしかない」と。

全ての悩みは「対人関係」のなやみである
我々は孤独を感じるのにも、他者を必要とします。すなわち人は、社会的な文脈においてのみ、「個人」になるのです。

アドラー「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言している。

個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。どんな種類のなやみであれ、そこには必ず他者の影が介在しています。
e.g.身長155cmの身長で悩む男性
友人は「くだらない」と一蹴。小柄であれば相手も警戒心を解いてくれる。なるほど、小柄であることは自分にとってものは周囲にとっても、好ましいこと。

∴身長は「劣等感」ではなかった。

問題は、その身長について私がどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。

自分の身長について感じていたのは、あくまで他者との比較、つまりは対人関係、の中で生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。

つまり、我々を苦しめる劣等感は、「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのである。

我々は客観的な事実を動かすことは出来ないが、主観的な解釈は「選択可能」でいくらでも動かすことができる。そして我々は、主観的な世界の住人である。

価値とは、社会的な文脈の上で成立している。
e.g.ダイヤモンド、貨幣など

言い訳としての劣等コンプレックス

アドラー「優越性の追求」
人は無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。
e.g.「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」

しかし、理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。

アドラー「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と。劣等感も使い方さえ間違えなければ、努力と成長の促進剤となるのです。

「劣等感」と「劣等コンプレックス」は違う。

「劣等感」それ自体は、別に悪いものでない。努力や成長を促すきっかけとなる。
e.g.「私は学歴が低い。だからこそ、他人の何倍も努力しよう」

「劣等コンプレックス」とは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを指す。
e.g.「私は学歴が低いから、成功できない」

アドラーの「見かけの因果律」
本来はなんの因果関係ものでないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。

自慢する人は、劣等感を感じている
「劣等感コンプレックス」
自らの劣等感コンプレックスを言葉や態度で表明する人、「AだからBできない」と言っている人は、「Aさえなければ、私は有能であり価値があるのだ」と言外に暗示しているのです。

劣等感がある状態、それは現状の「わたし」に何かしらの欠如を感じている状態の時、欠如した部分をどのようにして補償していくか。
→最も健全な姿は、どかと成長を通じて補償しようとすること。
 e.g.勉学に励む、練習を積む、仕事を精を出す

しかし、劣等感を補償する勇気のない人は、「劣等感コンプレックス」に踏み込んでしまう。
e.g.「学歴が低いから、成功できない」

また「できない自分」を受け入れられない人は、もっと安直な手段によって補償しようと考えます。

つまり「優越コンプレックス」。あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。
e.g.「権威づけ」自分が権力者と懇意であることをことさらにアピールする、経歴詐称、服飾品の過度なブランド信仰、自分の手柄を自慢したがる、過去の栄光の思い出話ばかりする

わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がないのです。

アドラー「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからに過ぎない」と。

劣等感そのものを先鋭化させることによって、特異な優越感に至るパターンです。具体的には「不幸自慢」ですね。

自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。

自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々を心配させ、その言動を束縛し、支配しようとしている。

アドラー「私たちの文化の中で、誰が一番強いか自問すれば、赤ん坊であるというのが論理的な答えだろう。赤ん坊は支配するが、支配されることはない」と。赤ん坊は、その弱さによって大人たちを支配している。そして、弱さゆえ誰からも支配されないのです。

自らの「不幸」を「特別」であるための武器として使っている限り、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

人生は他者との競争ではない
「優越性の追求」同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。★自らの足を一歩前に踏み出す意思であって、他者よりも上を目指さんとする競争の意思ではありません。誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いて行けばいいのです。

健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるのです。

他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、我々は「同じではないけれど対等」なのです。

人は誰しも違っている。その「違い」を、善悪や優劣と絡めてはいけないのです。

また、大人扱いするのでなく、子ども扱いするのでなく、いわば「人間扱い」するのです。どんな人間に対しても、自分と同じひとりの人間として、真摯に向かい合うのです。

いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。

「お前の顔を気にしているのはお前だけ」
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。

競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。そして、いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになるのです。

社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。

「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」
対人関係を競争で考え、他者の幸福を「私の負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。

大切なのは、「人々は私の仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方は全く違ったものになります。

権利争いから復讐へ
私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います。私的な怒りはすぐ冷める。一方公憤は、論理に基づいているので、長く継続する。

もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。

直接的な面罵に限らず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えて下さい。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。

もしあなたが、この「権力争い」を制したとしても、敗れた相手は「復讐」の段階に突入します。相手は別の場所、別の形で、何かしらの復讐を画策し、報復行為に出ます。
e.g.親から虐げられた子どもが非行に走る、不登校になる、リストカットなどの自傷行為に走る

これはフロイト的な原因論では、「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんな風に育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。

しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。

過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復讐)をかなえるために。

対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士の解決はほとんど不可能になります。そうならないためにも、「権力争い」を挑まれたときには、絶対に乗ってはならないのです。

非を認めることは「負け」じゃない
相手が闘いを挑んできたら、相手のアクションに対してリアクションを返さない、我々にできるのは、それだけです。

我慢する」という発想は、あなたが「権力争い」にとらわれている証拠です。
「怒り」とは、しょせん「目的」をかなえるための「手段」であり、「道具」なのですから。

怒りとは、コミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツール(言葉の力、論理の言葉)があることを知らないのです。

人は、対人関係の中で「私は正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。

「私は正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だから私は勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全な「権力争い」でしょう。

そもそも主張の正しさは、勝ち負けと関係がありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結すべき話です。ところが、多くの人は「権力争い」に突入し、相手を屈服させようとする。

だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。

「誤りを認めること」、「謝罪の言葉を述べること」、「権力争いから降りること」、これらはいずれも「負け」ではありません。

直面する「人生のリスク」をどう乗り越えるか
アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方に、はっきりとした目標を掲げています。

(行動面の目標)
①自立すること
②社会と調和して暮らせること

(この行動を支える心理面の目標)
①私には能力がある、という意識
②人々は私の仲間である.という意識

これらの目標は、アドラーのいう「人生のタスク」と向き合うことで達成できるわけです。

「人生のタスク」には「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つがあります。これは、対人関係の軸、対人関係の距離と深さ、という話です。

つまり、一人の個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係、それが「人生ののタスク」です。この「直面せざるをえない」という意味において、まさしく「タスク」なのです。

「仕事のタスク」どんな仕事であれ、一人で完結する仕事はありません。ただし、距離と深さという観点から考えると、仕事の対人関係は最もハードルが低いといえます。そして、この段階の対人関係でつまずいてしまったのが、ニートや引きこもりと呼ばれる人たちです。

核にあるのは「人間関係」です。ニートや引きこもりと呼ばれる人たちは、無能の烙印を押されること、叱責されること、他者から批判されること、かけがえのない「わたし」の尊厳を傷つけられることが嫌なのです。

赤い糸と頑強な鎖

「交友のタスク」
これは、仕事を離れた、もっと広い意味での交友関係です。仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのも深めるのも難しい関係になります。

友達や知り合いこ数には、何の価値もありません。考えるべきは、関係の距離と深さなのです。

アドラー心理学は、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学です。他者が変わるのを待つのでなく、あなたが最初の一歩を踏み出すのです。

「愛のタスク」
アドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することはできる。それが愛なのです。

人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えた時、愛を実感することができます。

一方、束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。

アドラー「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」と。

恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。しかし、親子関係は原則としてそれが出来ない。

親子関係で一番いけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。

「人生の嘘」から目を逸らすな
アドラーは、様々な口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して、「人生の嘘」と呼びました。
e.g.あなたが、Aさんを嫌っている

あなたには「Aさんを嫌いになる」という目的が先にあって、その目的にかなった欠点をあとから見つけ出しているのです。

恋愛関係の人と別れるとき
相手は何も変わってません。自分の目的が変わっただけです。たとえ相手が聖人君子のような人であっても、嫌うべき理由など簡単に発見出来ます。

そして重要なポイントは、善悪でも道徳でもなく“勇気”の問題です。

所有の心理学から使用の心理学へ
フロイト的な原因論は「使用の心理学」であり、やがて決定論に行き着きます。
一方、アドラー心理学は「使用の心理学」であり、決めるのはあなたなのです。

第三夜 他者の課題を切り捨てる

承認欲求を否定する
アドラー心理学では、他者からの承認を求めることを否定します。

むしろ、承認を求めてはいけない。

「あの人」の機体を満たすために生きてはいけない

我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。他者の期待など、満たす必要はないのです。他者の評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。

他者も「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。

ユダヤ教の教え「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。

我々は、神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです。

「課題の分離」とは何か
アドラー心理学では、何かの課題があったとき、「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。

我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

そして、他者の課題には踏み込まない。

あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるのは自分の課題に土足で踏み込まれること、によって引き起こされます。

誰の課題かを見分ける方法は、「その選択によってもたらせる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えて下さい。

勉強について言えば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をするら用意があることを伝えておく。
e.g.ある国のことわざ「馬を水辺に連れて行くことは出来るが、水を呑ませることは出来ない」と。

本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけです。

他者の課題を切り捨てよ
親子関係で最も大切なのは、子どもが窮地に陥ったとき、素直に親に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているか、になります。

まずは、「ここから先は自分の課題はない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。

対人関係の悩みを一気に解消する方法
自らの生について、あなたに出来るのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにも出来ない話です。

アドラー心理学ならではの画期的な視点「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない」

「ゴルディオスの結び目」を断て
複雑に絡み合った結び目「この結び目を解いた者がアジアの王になる」という伝説
アレクサンドロス大王は、結び目が固いと見るや、短剣を取り出して一刀両断に断ち切ってしまった。

複雑に絡み合った結び目、つまり対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的方法で解きほぐすのでなく、何か全く新しい手法で断ち切らなければなりません。

「課題の分離」は、対人関係の最終目標ではありません。むしろ入口なのです。

アドラー「困難に直面することを考えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」と。

承認欲求は不自由を強いる
他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。

他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。

本当の自由とはなにか
「自由とは、他者から嫌われることである」

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことは出来ない。つまり、自由になれないのです。

嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んで行く。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登って行く。それが人間にとっての自由なのです。

「嫌われたくない」と願うのは私の課題かもしれませんが、「私のことを嫌うかどうか」は他者の課題です。

幸せになる勇気には「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ち得たとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

対人関係のカードは、「わたし」が握っている
対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのです。

対人関係というと、どうしても「二人の関係」や「大勢との関係」をイメージしてしまいますが、まずは自分なのです。

第四夜 世界の中心はどこにあるか

個人心理学と全体論
アドラー心理学は「個人の心理学(individual psychology)」であり、この個人(individual)という言葉は、語源的に「分割できない」という意味を持っています。

アドラーは、精神と身体を分けて考えること、理性と感情を分けてかんがえること、そして意識と無意識を分けて考えることなど、あらゆる二元論的価値観に反対しました。

人間をこれ以上分割できない存在だととらえ、「全体としてのわたし」を考えることを「全体論」と呼びます。

課題を分離することは、対人関係の出発点です。

対人関係のゴールは「共同体感覚」
アドラーの対人関係のゴールは「共同体感覚」です。

「共同体感覚」とは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること。

不幸の源泉は対人関係にある。逆にいうとそれは、幸福の源泉もまた対人関係にある、という話でもあります。
そして「共同体感覚」とは、幸福なる対人関係のあり方を考える、最も重要な指標なのです。

アドラーの「共同体感覚」理解するには、まずは「わたしとあなた」という社会の最小単位を起点にするといいでしょう。

そして、そこを起点に「自己への執着」を、「他者への関心」に切り替えていくのです。

なぜ「わたし」にしか関心がないのか
「自己への執着」=「自己中心的」

じつは「課題の分離」ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的なのです。

承認欲求にといういる人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。他者の視線を気にしているのは、他者への関心ではなく、自己への執着に他なりません。

「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。

あなたは世界の中心ではない
「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。

「所属感」とは、生まれながらにして与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。

つまり、あなたも私も、自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。そして、「わたしはこの人に何を与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。

より大きな共同体の声を聴け
アドラーでは「共同体」の範囲は「無限大」なのだと考えればいいでしょう。家庭や会社のように目に見えるものだけでなく、目には見えないつながりまで含んでいます。

我々が対人関係の中で困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」と原則です。

関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。目の前の小さな共同体(学校、会社など)に固執することはありません。もっとほかの「わたしとあなた」、もっとほかの「みんな」、もっと大きな共同体は、必ず存在します。

叱ってはいけない、ほめてもいけない
課題を分離することが、どう良好な関係につながるのか?「横の関係」という概念になります。

アドラー心理学では、子育てをはじめとする他者とのコミュニケーション全般について「ほめてはいけないし、叱ってもいけない」という立場をとります。

ほめるという行為には「能力ある人が、能力ない人に下す評価」という側面が含まれています。
e.g.「えらいわね」とほめる母親は、無意識のうちに上下関係をつくり、子どものことを自分より低く見ているのです。

人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです。そこには感謝も尊敬も存在しません。

誰かにほめられたいと願うこと。あるいは逆に、他者をほめてやろうとすること。これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です。

アドラー心理学では、あらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。

そもそも劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識です。あらゆる人に対して「同じではないけれど対等」という横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地はないのです。

「勇気づけ」というアプローチ
対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって、相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。

「援助」とは、大前提に課題の分離があり、横の関係があります。勉強は子どもの課題である、と理解した上で、できることを考える。具体的には、勉強しなさいと上から命令するのでなく、本人に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけるのです。

こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。

人は、ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していくからです。

まずは課題の分離をすること。そしてお互いが違うことを受け入れながら、対等な横の関係を築くこと。「勇気づけ」は、その先にあるアプローチになります。

自分には価値があると思えるために
いちばん大切なのは、他者を「評価」しないと、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。

人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。

アドラー心理学見解は「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」と。

そして、人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。つまり、他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「良い」と評価されるのでなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこで初めて我々は、自らの価値を実感することができるのです。

ここに存在しているだけで、価値がある
他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「何をしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。
e.g.交通事故で意識不明の重体ではあるが、今日の命がつながってくれただけで嬉しい、と感じる

ありのままのわが子を誰と比べることもなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。

アドラー「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」と。

人は「わたし」を使い分けられない
アドラー心理学では「まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくこと。そこからスタートしましょう」。

もしもあなたが、誰かひとりでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえているのです。

意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。

第五夜 「いま、ここ」を真剣に生きる

過剰な自意識が、自分にブレーキをかける
「わたし」に執着することをやめて、「他者への関心」に切り替え、共同体感覚を持てるようになること。

自己肯定ではなく、自己受容
共同体感覚を持つために必要となるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つになります。

「自己肯定」とは、出来もしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。

一方の「自己受容」とは、仮に出来ないのだとしたら、その「出来ない自分」をありのままに受け入れ、出来るようになるべく、前に進んでいくことです。

「肯定的なあきらめ」→「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極める

ありのままの「わたし」を受け入れること。そして、変えられるものについては、変えていく”勇気”を持つこと。それが「自己受容」です。

我々は何かの能力が足りないのではありません。ただ”勇気”が足りていない。すべては”勇気”の問題なのです。

信用と信頼は何が違うのか
「信用」とは条件付きの話なんですね。

「信頼」とは他者を信じるにあたって、一切の条件をつけないことです。無条件に信じることです。

「信頼」の対義語は「懐疑」です。

「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信用の関係でしかありません。

無条件の信頼とは、対人関係をよくするため、横の関係を築いていくための手段です。

信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことはできません。

裏切りは他者の課題である。

仕事の本質は、他者への貢献
まず交換不能な「このわたし」をありのままに受け入れること。それが自己受容です。そして他者に対して無条件の信頼を寄せることが、他者信頼になります。

共同体感覚とは、「自己受容」と「他者信頼」、そして3つ目のキーワードである「他者貢献」が必要になってきます。

仲間である他者に対して、何らかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。それが「他者貢献」です。

「他者貢献」とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。

労働とは金銭を稼ぐ手段ではありません。我々は労働によって他者貢献をなし、共同体にコミットし、「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感して、ひいては自らの存在価値を受け入れているのです。

若者は大人より前を歩いている
他者がわたしに何をしてくれるかでなく、わたしが他者に何が出来るかを考え、実践していきたいのです。その貢献感さえ持てれば、目の前の現実は全く違った色彩を帯びてくるでしょう。
e.g.家族からたとえ「ありがとう」の声が聞けなかったとしても、食器を片付けながら「わたしは家族の役に立っている」と考えて欲しいのです。

ありのままの自分を受け入れる、つまり「自己受容」する、からこそ、裏切りを怖れることなく「他者信頼」することができる。そして他者に無条件の信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」することができる。さらには、他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、ありのままの自分を受け入れることができる、「自己受容」することができる。

(行動の目標)
①自立すること
②社会と調和し暮らせること

(この行動を支える心理面の目標)
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識

アドラー心理学を本当に理解できて、生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるといわれています。

若い人は、人生の早い時期に学び、早く変われる可能性があるという意味において、「若い人の方が前を歩いている」。

ワーカホリックは人生の嘘
不愉快な思いをしても、攻撃してくる「その人」に問題があるだけであって、決して「みんな」が悪いわけではない、という事実です。

アドラー心理学「人生の調和を欠いた生き方」
物事の一部だけを見て、全体を判断する生き方です。どうでもいいはずのかごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている誤ったライフスタイル。

ワーカホリックの人は、「仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない」と弁明するでしょう。しかし、これは人生の嘘です。仕事が忙しいのを口実に、他の責任を回避しようとしているに過ぎません。本来は家事にも、子育てにも、友人との交友や趣味にも、すべてに関心を寄せるべきであって、どこかに突出した生き方などアドラーは認めません。
e.g.「誰のおかげで飯が食えると思ってんだ」←「行為のレベル」でしか、自分の価値を認めることができていない。こういう人が怪我や病気によって働くことができなくなる、つまり「行為のレベル」でしか自分を受け入れられない人たちは、深刻なダメージを受けることになるでしょう。

人はいま、この瞬間から幸せになることができる
人間にとっての最大の不幸は、自分を好きになれないことです。この現実に対して、アドラーは「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らにら価値があることを実感させてくれるのだと。

他者貢献とは、目に見える貢献でなくとも構わないのです。たとえ目に見えなくても「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。

「幸福とは、貢献感である」それが幸福の定義です。

行為のレベルであれ、存在のレベルであれ、自分は誰かの役に立っていると「感じる」こと、つまり貢献感が必要なのです。

承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。

我々は自由を選びながら、なおかつ幸福を目指す存在なのです。

「特別な存在」でありたい人が進む、2つの道
我々人間は「優越性の追求」という普遍的な欲求を持っています。そして多くの子どもたちは、最初の段階で「特別によくあろう」とします。しかし、それが叶わなかった場合、今度は一転して「特別に悪くあろう」とします。

これら2つは目的は同じで、他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になること。

「安直な優越性の追求」
e.g.大声を出して授業を妨害する、非行に走る、不登校、リストカットなど

普通であることの勇気
アドラー心理学が大切にしているのが「普通である勇気」という言葉です。

人生とは連続する刹那である
人生は、線としてとらえるのではなく、点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。
我々は「いま、ここ」にしか生きることができない。我々の生とは、刹那の中にしか存在しないのです。

計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。

ダンスするよう生きる
人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「このなところまで来ていたのか」と気づかされる。
e.g.司法試験→弁護士、執筆→作家

ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのです。しかし、目的地は存在しないのです。
e.g.ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとは誰も思わない。踊った結果として何処かに到達することはあります。踊っているのですから、その場にとどまることはありません。

アリストテレスによる説明
「キーネーシス(一般的な運動)」には始点と終点がある。そして、目的地にたどり着くまでの道のりは、目的に到達していないという意味において不完全である。それがキーネーシス的な人生です。

「エネルゲイア(現実活動態)」とは、「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きです。「過程そのものを、結果と見なすような動き」と考えてもいいでしょう。

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ
「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。

過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」には何の関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

フロイト的な原因論では、人生を因果律に基づく大きな物語としてとらえてしまいます。そして、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。

しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。

直線のように見える過去の生は、あなたが「変えない」という不断の決心を繰り返してきた結果、直線に映っているだけにすぎません。

これからの人生は、全くの白紙であり、進むべきレールが敷かれているわけではない。そこに物語はありません!

「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。

人生最大の嘘
「いま、ここ」を真剣に生きているなら、そこには必ず「今日できたこと」があるはずです。今日という1日は、そのためにあったのです。

どこに到達したのかの線で見るのでなく、どう生きたのか、その刹那を見ていくのです。

目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないで下さい。人生はいつもシンプルであり、それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生は常に完結しているのです。

あなたも、私も、たとえ「いま、ここ」で生を終えたとしても、それは不幸ではなく、20歳で終えた生も、90歳で終えた生も、いずれも完結した生であり、幸福なる生なのです。

つまり、私が「いま、ここ」を真剣に生きていたとしたなら、その刹那は常に完結したものである。

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。ありもしない過去と未来ばかりに光を当ててこられたのは、自分の人生に、かけがえのない刹那に、大いなる嘘をついてきたことになるのです。

決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。

無意味な人生に「意味」を与えよ
アドラーによれば、人生の意味、人は何のために生きるか、の問いに対する答えは、「一般的な人生の意味はない」、ということです。つまり、人生には一般論として語れるような意味は存在しないのです。
e.g. 戦果に巻き込まれたり、理不尽な出来事に出会ったりした人を前に「人生の意味」など語れません。

大きな天災に見舞われたとき、原因論的に「どうしてこんなことになったのか」と過去を振り返ることに、何の意味もない。

我々は困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これから何ができるのか?」を考えるべきなのです。

そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と続けています。
e.g.戦時中、焼夷弾で顔面に大やけどを負った祖父。これは非常に理不尽で非人道的な災いです。「世界は酷いところだ」をいうライフスタイルを選ぶことも可能だったでしょうけど、祖父は電車に乗って他の客が毎回のように席を譲ってくれたので「人々は仲間であり、世界は素晴らしいところだ」というライフスタイルを選択した。

アドラーは、自由なる人生の大きな指針として「導きの星(北極星のようなもの)」というものを掲げます。

あなたがどんなに嫌われようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、何をしなくてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。

自らの上空に「他者貢献」という星を掲げていれば、常に幸福とともにあり、仲間とともにある!そして、刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです。誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。

「一人の力は大きい」、いや「私の力は計り知れないほどに大きい」ということです。

つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。

これは長年近視だった人が、初めてメガネをかけた時の衝撃と似ています。しかも、視界の一部がクリアになるのではなく、見える世界の全てがクリアになる。

アドラー「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」と。

あとがき 古賀史健
「人は社交的な文脈においてのみ、個人となる」「全ての悩みは、対人関係の悩みである」「人はいまこの瞬間から変われるし、幸福になることができる」「問題は能力でなく、勇気なのだ」と喝破するアドラー心理学。

岸見一郎
アドラー心理学は、ギリシア哲学(プラトン、アリストテレス)と同一線状にある思想だったのです。

哲学のもとの意味は「知を愛すること」です。

アドラー心理学を受け入れがたいということがあれば、それが常識へのアンチテーゼの集大成だからであり、その理解には日常生活での実戦も必要だからです。言葉の難しさはなくても、真冬に夏の猛暑を想像するような難しさがあるかもしれませんが、対人関係の問題を解く鍵をつかんでもらえたらと思います。